翌日は、補習最終日だった。学校へ行くのは今日が最後。夏休みはあと二週間近く残っているが、彼らは与えられた課題をすべて終えていたので、あとは好きなように時間を費やすのみだった。これまでの毎日熱の篭った教室の中で八十分も集中しなければならなかった上に、照り付けられたアスファルトの上を、もっと言えば、その上をごった返す人込みの中を往復しなければならなかった日々から開放されるのだから、天国と呼んでも過言ではないだろう。
しかし、そんな手放しで喜べるような状態にありながらも、輝翔は心ここにあらずといった状態だった。
寝ても覚めても、彼女の笑みが忘れられないのだ。一人で静寂の中に居る時、人間は嫌なことを思い出す。彼は昨日家に戻ってから一人で居た間は、ずっと彼女に苛まれていた。床についてからも、目を開けても閉じても彼女の軽く釣り上がった口元が忘れられない、やっとのことで意識を深く深くに追いやって眠りについても、夢の中で彼女が現れ、彼と目を合わせては口端を歪め、その悪感で彼は目覚めてしまう。同じ事を夜明けまで何度も何度も繰り返したのだ。
一体何が原因なのだろうか。たった一人の人間が笑っただけ。普通の人が見たところで、悪感を感じるようなことなどないのだろう。でも、彼の場合は、身体全体がそれを覚えているようだ。記憶に残ってはいないのに、一体、彼女は彼の何なのだろうか。
―絵波は、毎日こんな感じだったのだろうか……
そんなことを考えている内に、何時の間にか先生が語るだけの八十分は過ぎていた。
二人は帰路についた。いつもの大通りの人込みは、何の気休めにもならなかった。道行く人達は自分には無関心だ。誰かと話でもしていれば、何か別のことに集中することでもあれば大丈夫なのだが、こういう時に限って絵波は何も話さないし、道端で必死になって大声を張り上げては看板を持って宣伝をしている人もいない。やかましいクラクションすら聞こえない。
体中が、わずかに強ばっていた。昨日彼女と目が合った辺りに近付く度に、緊張が高まっていく。集中するものが何もなく、空の頭は、昨日の強烈な彼女の記憶で埋め尽くされていた。
彼は軽く頭を振った。じっとしていれば、より鮮明な彼女の口元が思い出される。その笑みが生み出す悪感と共に……
「輝翔?」
心配している表情で、絵波は話しかけた。彼はそれまでの呪縛から少しだけ解き放たれ、極力平静を装ってぎこちない笑みを浮かべた。
「何? 絵波」
「大丈夫? 朝から、ずっとおかしいけど……」
「そ、そうか? いつも通りだけど……」
「昨日からそうだけど、どうしたの? 自分の世界に閉じこもったようになっちゃって……何かあったの?」
言えなかった。話しても、きっと彼女は自分の満足の行く答えを返してくれはしないだろうし、うまく説明することも出来ない。
それに、何故か、直感的に、絵波には話してはいけない気がしたのだ。
「いや、何でもないよ。ちょっと寝不足で、冴えてないだけさ。気にすんな」
輝翔は力なく笑った。
「寝不足、か……」
絵波は小さく呟くと、ふうと溜息を漏らした。
「……どうした?」
「ん、ちょっとね…………また、あの夢見ちゃって……」
表情が力を失っていく様子を見て、輝翔は困り果ててしまった。昨日みたいにはぐらかすことは出来なかった。彼自身も、夢に近い、記憶に振り回されていたのだから。
「このまま、私、ずっとこの夢見つづけるんじゃないかな。いつか、これが正夢になって、姿を消されるまで……」
「そんなことねぇよ!」
絵波の言葉を遮り、輝翔は思わず叫んでいた。はっとし、決まり悪そうに目を逸らす。
「そんな、誰かに姿を消されるなんて、ありえないんだ。誰かに殺されたって、誰かの記憶の中で、自分は生きてる……自分が消えることなんかない! 誰も消しはしない!!」
彼は必死になって叫んだ。それは、彼女を慰めるのと同時に、自分自身に言い聞かせるかのようにも聞こえた。
絵波はしばし呆然としていた。呆然と、荒れ狂ったような輝翔を見つめる。
輝翔は何度か荒い呼吸をし、ふっと顔を上げ―硬直した。
いたのだ。あの彼女が。真正面、離れてはいるが、昨日よりもずっと近付いている。顔も服装も、はっきりと分かる。透明な袖のボタンの数までもがはっきりわかる程近くに。
動けなかった。身体は彼女を拒絶し、がたがた震えていた。喉元までもが麻痺したようになり、声も発せない。
今の彼女は無表情であるが、どうしても昨日の笑みを浮かべた表情とかぶってしまう。
輝翔は、完全に恐怖に支配されていた。
彼女の唇が、軽く動いた。
「もう、潮時だよ」
第五話へ続く